宮島達男 Beyond the Death展(死の三部作)@CAMK

ヤマハのちっちゃなピアノ

気になっていた現代美術館の展示へ。休館日を勘違いして2度も無駄足を運び、三度目の正直で鑑賞。
宮島達男という人には何の情報も持ち合わせていなかったので却ってそれが良かったのかもしれない、と思います。
今回は死(そして多分ほぼイコール生)をテーマにした三部作。何故か異様に人が少なくて、メイン展示…というわけではないけれど、とにかく一番最初に見た一番でかかった『Mega Death』という作品は一人で見ていました。これにやられた。
暗闇の中、壁一面の青色LED2256個のカウンターが9から始まり、一つ一つ異なったスピードでカウントダウンをしていく。1の次はゼロではなく消える。膨大な「数」の中からひとつを選んで見ていくとカウントが落ちていき、1になり、消える瞬間というのはなんとも胸が切なくなる。けれど、消えた空白の部分を見つめ続けると、また9が点灯して、カウントダウンが始まり、それが繰り返され、私は安堵した気持ちになるのです。そして作品全体を見ていると、統一されない、けれども調和の取れた光の瞬きがなんとも言えず心地よくて豊かで、頭がぼおっとするような満ちた、安心感を覚える、そういう感覚でした。


そこに突然の闇。すべてのカウントが、光が、強制的に消える。


息が詰まるかと思った、心臓はばくばく言うし。驚いた、とかそういう次元ではなくて闇の恐怖、あまりの圧倒的な強さ、そして(おそらく・・・一人だったし・・・)「それ」を私が作り出してしまったという取り返しのつかない気持ち。
というのも、この仕掛けは、センサーが設置されていて、プログラミングされたある位置に人が立つと強制終了する仕組みになっているんです。そういうこと。
これ、本当に分かりやすく、そしてあえて言わせてもらうとベタな表現だと思います。でも、圧倒的に「体験させる」力がある。体が理解してしまう、とでもいいましょうか。作者本人もそう思ったようでこんな発言があったそうです。

「<>で、LEDがすべて消えて真っ暗になるというのは、ちょっと手法としてはベタですよね。でも20世紀の大量死を表現するためには、ベタでもあえて行うべきだと感じたんです。」

CAMK機関紙vol.22 展覧会初日の記念トークの紹介文の中より。
  Mega Death 1999 宮島達男


次の展示は『Death of Time』。暗闇の中に赤色LED1412個のカウンターが壁に一列に並んでいて、やはり一つ一つの数字がカウントをしている。けれど、列の中心部にはぽっかりと空いているところ、列のちぎれた−−−闇−−−があります。ただ、ひとつ残念なのは、この美術館の建築構造上の柱が、作品全体を見るのをさえぎってしまっていて、すべてを目の中におさめることが出来なかった事。大きな作品なので、この作品を展示する事を前提に美術館が作られなければ難しいとは思うけれど*1暗闇の中なので、柱が意図せずに数字の列を遮ってしまう形になってしまい、この作品の鑑賞を大きく妨げていたと思います。
  Death of Time 1990-1992 宮島達男

HIROSHIMAは私の中にも住む間の総称である。これと対峙し続ける行動が、私の仕事の総体である

『Death of Time』への宮島達男によるメッセージ


三部作の最後が『Deathclock』。コンピューターの前に座り、*2ディスプレイに、名前と生年月日を入れる。すると何年何月何日まで生きたいか?と聞いてくる。決めろと言われると、考えなくてはならなくなります。とっさに私の頭の中に浮かんだのは、「結婚して、Mさんと何年一緒にいたいか」*3ということでした。30年…でもそうすると現在の私の両親位の時にはもうわかれてしまわなければならない。彼らは今が楽しそうだからそれはいやだなあ、だったら50年…ちょっと欲張りすぎかな、でも私の今まで生きてきた時間の長さの倍より短いなら、それでも少ないくらいだ、だからちょっと遠慮して、あと50年。
そう考える事で、この作品の半分は消化している(敢えて言うなら「させられる」)と思います。私が何を基準に、死ぬ日を決めるのか。
私の死ぬ日は2055年4月11日になりました。
デジタルカメラで顔写真を取り込み、そしてボタンをクリックすると、少し離れたところに取り付けられた壁にかかったディスプレイに私の顔、そして10桁の秒数が大きく表示され、どんどんとカウントダウンしていきました。
有限の、わたしの残された時間が、この今も確実に減っていく。
体験展示の都合上、表示されたのは一分間だけでしたが、このカウントダウン、続けていくと、顔写真は時間が経つにつれ、白くぼやけていき、最後には見えなくなるのだそうです。
生と死の鏡のような関係性、「自分はいつか死ぬ」と言う事を否が応でも突きつけられる、見せつけられます。*4
  Deathclock 2003 宮島達男


根底に全体的に感じたのは「輪廻」的なもの。カウントで刻まれて消えた数字も、やがてまた満ちて表れるのです。気になったのは二つ。『Death of time』ではカウントアップだった数字が『Mega Death』ではカウントダウンになっていた事。これに私は意図を感じたのですが、制作に少し時間が空いているこの間に思想的転換があったのか、ということ。もうひとつは『Mega Death』では、暗闇が訪れた後、(そしてこの暗闇は思いのほか長い・・・ながく感じられるだけ?・・・のだが)また光が少しずつ戻って、時間をかけ、少しずつ光が満ちてそして元の営みに戻るのだけれど、この動きももっと大きな「輪廻」的なものの表現だったのでしょうか?それとも作品の構造上そうなっただけ?私には意図的なものに感じられたのだけれど。核兵器等の大量破壊兵器によってもたらされる『人為的大量死』*5をも、生は(この場合「人間」かどうかを問うのは愚問だろう)乗り越えて(時間をかけて、だが)再び生の豊かさを取り戻す、という。考えすぎ?

直島の「角屋」に宮島氏の作品があるそうです。直島は前から気になってて(id:harada919さんの直島についてのエントリとその写真を見てすごく行きたくなりました。)。今回の展示を見てますます行ってみたくなった…。Mさんに相談してみましょう・・・。

*1:この作品は広島市現代美術館に所蔵されているとのこと。一度広島に行って何にも邪魔されずに観てみたい。

*2:Macでした。CAMKで2003年に行われた「Open Sky」…ポストペットなどの作品で有名な八谷和彦さんの展示会で使われていたのもMacでした。こういうのにはMacなのか?そうそう、八谷さんの展示、メーヴェが美しく、参加型で楽しかったなあ。行ってよかった。あと、入り口のコモモの写真を妹に送ったらポスペユーザーの妹がすごい喜んでたなあ。あ、ちなみに八谷さんはid:hachiyaはてなダイアリーを書いてらっしゃいます。私のアンテナにも入ってます。

*3:結婚するに当たっての私のたった一つのお願いと約束は、絶対に私より先に死なないで、と言う事でした。(残酷だけど、優しくないけど。そして絶対なんていえないものだけど、それでも。)だから、Mさんは私より先に死なないし、私が生きている限りきっと一緒にいる。(と、これだけは盲信するしかない。)だからここではイコール、なのです。

*4:そして当然その先にあるのは有限であるからこそ無限の可能性があると言う「生」に対する視線でしょう。そして死を表現するこの時計は生を刻んでいる時計だと言う事も。

*5:CAMK「鑑賞の手引き」にあった単語。「Artificial Mega Death」と訳されていました