無いものねだり

私は無いものねだりから何故解脱できないのでしょうか。言葉が出ないと、逆に言葉でコミュニケーションを取る事に拘泥します。それでしかコミュニケーションを取れないかのように錯覚してしまうほどです。形を変えた無いものねだりはほかにも存在します。たとえばいま、病床に臥せって最後のときを迎えようとしているリュウに対しても、もっと遊んでやれば、散歩にももっと連れて行けば、もっと帰ってやれば、と、考えるときりがありません。その『後悔の念』とやらは「リュウのため」ではなく、『私が』もっと「リュウに与えたかった」「一緒に遊びたかった」(=けどもうできない)という無いものねだりの一種じゃないかと思うのです。出来無いもの、手に入らないものを欲しがるのは人間の本能なのでしょうか、それとも私が特別強欲なのでしょうか。判らないけど、もっと拘らないで自由に、自然に出来たらもっと楽なんじゃないかなあ・・・と、ぼんやり思うのです。