母の実家へ

島へ行く船から見た船。少し揺れた。

顔を見せに行きました。本当は週末、両親とともに一泊の予定だったのですが、リュウの調子が悪いので、私も気になりつつ、でも半身麻痺でなかなかに難儀な生活を送っているおばあちゃんと、今日85歳の誕生日を迎えるおじいちゃんも私には大切なので、日帰りで私だけ行くという折衷案を採って行ってきました。
麻痺のせいで発語がはっきりしないおばあちゃんですが、1.注意深く、2.熱心に、3.諦めずに、聞いているとちゃんと解かります。前回行った時には私の声が出なかったので、私=ホワイトボードでの筆談(おばあちゃんは目が悪いのでよく見えない)と、おばあちゃん=聞き取り辛い発語、という、互いにハンディーを背負ったたいそう難儀な組み合わせでコミュニケーションを取りました。失語の経験から、自分の意思が伝わらない難儀さは身にしみていたので、なんとか諦めずにコミュニケーションを取りたいと必死に思った重たい数時間を私はよく覚えているのですが、そのことを話すと、おばあちゃんは既にその事を覚えていないようでした。(少し子供帰りしているところはありますが、ボケてはいません。ただ、忘れやすくはなっているのでしょう。)
そして、今日、ぼんやりテレビを見ている所に突然私が顔を見せると、泣いて喜んでくれたおばあちゃんの姿を見て、ああ、そうか、コミュニケーションっていうのは言語を介すものだけではないのだった、と、ごくあたりまえのことに今更のように気づくあほうな私なのでした。あの時は私のフラストレーションをおばあちゃんにぶつけていただけだったのかもしれないなあ、と思い至り、少し申し訳ない気持ちになりました。
おじいちゃん持ちでお昼にお誕生会をして(笑)美味しいお寿司をご馳走になり、実家でリュウの看病をする両親にお刺身をお土産に持たされ、(次も必ず会えるように。)と心の中で強く願って「またね」と言って家に帰る船に乗りました。