ひな菊の人生/吉本ばなな

今日に限って慌てていたから何の本も持たずに出てきて。阪急前のちっちゃい紀伊國屋でなんとなくすうっと平積みの前に吸い寄せられ「ああ、しばらくこの人の文章読んでいないな」と思い、ぱらぱらとめくった感じがあまり重くなさそうだったから(文体が重いことはこのひとの場合ほとんど無いと思うが)本当に殆ど何も考えず(文庫だから軽いしかさばらないしハズレてもそんなに気にならない、と言う事くらいしか考えなかった)そのままレジに持っていってすたすたと歩き、茜屋でコーヒーを頼んだ後読み始めました。


なんだかわからないんですけどね、やたら琴線に触れるんですよ。でもね、これは明らかに「今の私の状況だから」触れる、んだと思ったです。普段でもこんな風に痛かったり揺れたりしたかなあ。したかもしれないけど。それよりこの時期に(さして何も考えなかったのに)この小説にめぐり合った(殆ど能動的に選んだ気がしないから、それこそある一時期を越えて強く吉本ばななが主張するようになった『神と呼ばれる要素が介在』していたんじゃないかと思うような)そのピンポイントのタイミングに驚いてしまいました。

別れの時が来ると、いいことばっかりだったような気が、いつもする。思い出はいつも独特の暖かい光に包まれている。私があの世まで持っていけるのは、この肉体でもまして貯金でもなく、そういう暖かい固まりだけだと思う。そういうのを何百も抱えて。私だけの世界が消えてしまうというのだといい。

「ひな菊の人生」---『居候生活』より

そう、別れの時を感じて、「いいこと」ばかり思い出しては、もうその場所やその人との「いいこと」はこれ以上生まれないんだな、と、自分の胸にあるものを抱きしめては涙を流さず泣く様な、なんて贅沢で幸せな苦しみ方。
主人公と、私の状況は随分違うし、考え方も生き方に対するスタンスも随分違う気がするんだけど、ツボを突いてくるようなのは、多分、今の私が感情でコーティングされているような、へんな敏感さがあるからだと思います。ちょっと生き難いのは確かだけど、そういう時はそういう時で味わったらいいの、と、そんな事を言っていたのはそういえばせんせだったかもしれないな。

ひな菊の人生 (幻冬舎文庫)

ひな菊の人生 (幻冬舎文庫)

今夜はもうとことん眠れないから、もう一度読んでみよう。現在進行形で暖かいの固まりであるところのMさんにくっついて。(それは主人公にちょっと後ろめたくもあるけど。)