よわむしけむし

なんというかね、全くそうなんですよ。愛するマイ子様(id:maico20)がid:maico20:20060807のエントリでタイトルにされていらっしゃいましたけど、まさに。『楽しい週末と楽しくない週明け』なんですよ。週末が楽しければ楽しいほど週明けは反比例して楽しくないんです。私なんかもうよわよわなので、週明けどころか週末の夜から予期不安でめいっぱいな感じなんですね。いやーもういいかげんヤダ。
そしてね、巻き助さま(id:makisuke)のid:makisuke:20060807#p1を読んで泣きそうになりました、いや泣きました。実際にはまだ本も読んでないのに。レビューだけで泣いたのは初めてかも。それも『この日この時』のタイミングだからかもしれないけど。実はこの本、何度か手にとって、それでもなんだか怖くて読めなかったんですよ。最近は本当におんがくやほんに臆病になっていてそんな自分が嫌になります。「感動する」のは「心が動く事」で、でも私の心の動き方はいまちょっと大きすぎてすごい高いところに吊ってあるブランコでぐるぐる回ったり斜めになったり強風で落っこちそうになりながら読む感じになっちゃって、ブランコから降りたときにはふらふらで酔って倒れそうになっちゃうんです。


でもほんとうはおんがくも本も私のからだに必要なものだから逃げ回ったりお手軽なものやジャンクなものでお茶を濁すのは情けないし自分にむかついて反吐が出そうなんです。


でね、読んでもない本の一節を更に引用しちゃうのはどうかと思うんだけど、でもこの一文にたどり着くためだけに読んでもいいと思ったので敢えて書かせてください。

やっとわかった。信じることや夢見ることは、未来を持っている人だけの特権だった。信じていたものに裏切られたり、夢が破れたりすることすら、未来を断ち切られたひとから見れば、それは間違いなく幸福なのだった。

流星ワゴン (講談社文庫)  重松清『流星ワゴン』


陳腐な言い方だけど、光と陰とか、悪魔がいるから天使がいられるとか、そういう拡大解釈をするのはもしかしたらすごーく間違っているのかもしれないけど、でも、今の私はそういう風に何もかも大げさに考えすぎなんです多分。
だから元々は「週末ずっと一緒にいられたのにまた独りになっちゃう」っていうとっても馬鹿らしいほどの瑣末な事を書き始めたのにこんな大風呂敷になっちゃった。
瑣末な事だけど心を動かすものを拾い出すのがうまかった昔の江國香織は、私が彼女のものの中で一番好きなエッセイの中の『月曜日』という章でいろんな事を言っています。

月曜日の私は疲労困憊している。稀にだけれど、ほんとうに一日じゅうベッドから起きあがれないこともある。声が嗄れていることもある。
あらゆることが週末に起こるからだ。結婚してからというもの、私のエネルギーはほとんど週末に費やされている。
週末は特別だ、朝、新聞を買いに、夫とコンビニエンスストアにいくのさえ嬉しい。

やがて、南の島でのバカンスはおわり、平日が戻ってくる。
月曜日の朝、私は夫が会社に行ってしまうのがつまらなくて、つい仏頂面になってしまう。早く次の週末になればいいのに、と思いながら玄関に靴を出す。

いくつもの週末  江國香織『いくつもの週末』
まったく。さっき殆ど半泣きで玄関まで見送ってきました。不機嫌を通り越して不安定なのは月曜の朝ではなく昨日の夜からで*1、そんな風に手を焼かせてしまって本当に申し訳なく思います。
でも、江國は続けて、

そして、自分でも驚いてしまうのだけれど、そのくせ夫を送り出した瞬間、ものすごい安堵の波がおしよせるのだ。安堵と疲労、それから眠気。

というから、私とは全然違うんだなあ、と今では思うのです。結婚をする前にこのエッセイを読んだ時には私に余裕があったんだと思うし、私も月曜日には一緒に仕事に行って前線へ飛び出す戦友だったから立場が全然違ったし、自分が仕事をしないでパートナーの収入だけで生活をし、ずっと家に居る事になるなんて想像もしていなかったから、そこから先のくだりはふーん、と思って読んだけど、いまはなんだか嫌な感じだ、と思います、いや、江國のスタンスのほうが多分素敵なんだけど、何か冷たいし私とは全然違う。もしかしたら悔しいから嫌だと思いたいのかもしれないですね。


で、話があっちゃこっちゃ行って非常にシンプルな事をややこしく書くのは私の悪い癖なのですが、つまり先にご紹介した敬愛するお二人のエントリに共通する部分を非常に感じつつ、もう全くお手上げだと言うくらいその通りだと思っているのに、私は何故そのいわば「負」の部分をもう少し上手に受け入れられないのか、しかも「負」しかないなら兎も角、わたしは「正」の部分を受け取っているのに(しかも大概先取りして!!)(重松清の小説の一節から汲むと、もし例えずーっと「負」ばっかりだったとしてもなお、ということになりそう)こんなに気分を重くするのは、何か良く判らないけど「不当な事をしている」気がします。


それでさらにまた話を大きくしちゃうけど、(あれ、もしかしたら小さくかも。)こんな(悲しかったり落ち込んだりという負の気分も含め)気持ちになれるのも、Mさんというパートナーがいて、ものすごい確立で一人しかいないその人と間違うことなくめぐり合ってそしてお互いがお互いをすきであいしていて一緒に生活ができるという、途方もない幸せが前提としてあるわけなんです。でも私は、自分の苦しみをMさんと関連付けたり、生きていく根拠を彼に(勝手に)預けたりしてしまいがちで、そういうのはいくらなんでもいろいろ押し付けすぎだし、重いし、だいたいあまりにも自分が空っぽすぎる。わたしは出会ってこのかたもう10年もMさんの事がすきで、いまでも出合った頃と変わらないくらいすきで、いやその頃より今のほうが多分もっと好きで、時々自分はおかしいんじゃなかろうかと思うくらいですけど、盲目に好きになるのは構わないとしても、自分がないこととかそのほか色々思いつく限りの困った事を「愛しすぎたから」とかそういう三流映画の陳腐な台詞みたいなものにすり替えるのだけはしたくないんです。でも全く残念な事に今まさにそんな感じみたいで。


いいとししてこんな自分キライなんていうのいい加減止めたいです。内容は違っても中学や高校の頃と変わっていない、いや、内容からしたら「おとな」になってからのほうがもっとつまらないです。どんどんどんどんどんどんつまらんにんげんになっていくのがとめられなくてもうどうしようかと途方に暮れます。


東京は雨が降っています。小降りになったら『流星ワゴン』を買いに行きます。
怯えていた私に、それでもなお手にとって読みたい、と思わせるようなレビューを書いてくださった巻き助様、ありがとうございます。
そして、年月を経たからって、お約束のように愛がしぼむ訳じゃないし、でも自分の感情を持て余す事は少し減って、何と言うか・・・変ないがらっぽさとかえぐみとかが取れておいしいおさけになっていくように変わる、という希望をいつも持たせてくれるマイ子様、いつもいつもありがとうございます。


という変則的且ついろんな人へのラヴレターでした。支離滅裂な上に長くなっちゃって読まれた方、本当にごめんなさい。

*1:昨日Mさんは有給を取っていたのでこの場合は「火曜の朝」なのだけどそんな事はこの際どうでもいいですね。