重松清『流星ワゴン』

流星ワゴン (講談社文庫)

流星ワゴン (講談社文庫)

とても読みやすく、とてもスムーズに、とてもリズミカルに物語は進んでいくのに、何故何度も立ち止まるような読み方を私はしたんだろう、と、後になって思ったのは、一気に読んだのに読み終わるまで4時間位かかったからです。(普段ならこのボリュームでこの文体なら2時間前後。)それは多分、主人公の独白やチュウさんをはじめとする登場人物の台詞が何気ないようでとても重いから。すっと読んで、はっとして立ち止まって振り返り、また戻ってもう一度読んで噛み締める、そんな読み方だった気がします。
「死んじゃってもいいんだよなあ、別に」
「なーんかもう、疲れちゃってさあ、ぼく、もうヤなんだよねえ・・・・・・。」
そういう「死にたい」ではないけど非積極的な希死念慮のようなものに取り付かれるところは、シチュエーションは全く違っても、言ったら『同じ穴の狢』で、読みながら俯いてしまう。多分以前ハードカバーで平積みされていたときにぱらぱらとめくった時、ここら辺まで読んで「あーだめだひきずられるやめとこ。」と、この本を手放したのです、たしか。最後まで読めば無論何かが開けていると言うのは予想できたけれど、事によれば、ひどく落胆しかねない、そうも思いました。
実際には、解説の斎藤美奈子氏が指摘するように「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や「クリスマス・キャロル」と違ってハッピーエンドにはならない。ならないのに、これは確かにまぎれもなく悲劇的な話なのに、読者の流す涙が只のカタルシスにならないのは、先に「希望のかけら」や「薄くてかすかな光」が見えるからなんだろうと思いました。後半に私が流した涙はきっと「祈りの涙」であり「願いの涙」だったんじゃないかと。そう言う意味で、痛くて厳しくて辛い話なのだけれど、そしてあまりにも無力で「信じること」や「祈る事」しか出来ない主人公なのだけれど、そのシンプルで原始的なものからしか殆どのものは生まれないのかもしれない、と思わされました。


昨日の私のエントリに対して、この本へ導いてくださった巻き助様(id:makisuke) が「自分キライというのも、きっと贅沢ですよね。」とコメント下さったのですが、全くその通りで。そしてもっと言えば昨日(読む前なのに)『流星ワゴン』から引用したあの文章も、この小説を知る前から既に私の頭の中にぐるぐるると、どちらかと言えば常に渦巻いている事で。じゃあ何故?いやだからこそ引っ掛かったんです、多分。私はこのことを「知って」いるけど本当には「解って」いない。会得していない。身についていない。だからいつまでもぐるぐるぐると「考えて」いる。そしてその結果、時には自罰的な思考に陥ったりもする・・・。
でもこの小説のこの「考え」はそうやって自分を「追い込む」ものじゃない。どちらかと言えば自分を肯定するものに近いと思います。そして何よりうまいなあ、と思うのは、「あの人より不幸じゃないから自分はまだ幸せな方なんだ」というクソつまらん反吐が出るような発想と紙一重のこの「考え」を間違えずに伝える、そこまでの流れや設定や、そういた様々な仕掛けが綿密に準備されていて、絶対に嫌らしくならない所。しつこいけどもう一度引用しましょうか。

やっとわかった。信じることや夢見ることは、未来を持っている人だけの特権だった。信じていたものに裏切られたり、夢が破れたりすることすら、未来を断ち切られたひとから見れば、それは間違いなく幸福なのだった。

ここだけ切り抜くのは、本当はよくない、そう思います。良ければ全部を読んで、その流れでこの一説をしみこませて欲しい。そうすれば、どういうことか、きっともっとちゃんと解る筈だから。


私は、読んだ今でもきっとまだ本当には「解って」いないと思います。けれども読む前よりきっと少しだけ染み込んだような気がするのです。いつか強がりでもなく本当に「それでも私幸せだよ」と、揺らいだりせずにまっすぐと言えるようになりたい。例え今の状況が変わらなくても、もっと『サイテーの、サイアクの、もう、めちゃくちゃでどーしようもない現実』になったとしても。