おふろでのひらめき

実家のお風呂は結構広いのです。(といっても特別な浴槽って訳ではなく、メーカーの規格品の組み合わせですが。)我が家のと違って、足がうーんと、伸ばせます。横幅も、ちょっと広くてゆたーっと出来ます。それでもまあ、いわゆる中流家庭のありきたりなお風呂です。
このまえぬる目のお湯にぼけーっとして浸かっていました。足が伸ばせて楽ちんだな、いつもと違って。*1
ふと思いついて、縦長の浴槽に、横向きに入ってみました。浴槽の頭側の方に。体育座りをしたら、ちょっと広めの横幅の浴槽に、私の足と背中と右腕がぴっちりと、計ったようにきっちりとおさまりました。ぎちぎちに締め付けられるわけではないけれど、体に寄り添うようにぴったりとした窮屈。これじゃ、やっぱり、動けない。
そのとき、自分の普段感じている、もやっとした、あまりにも漠然としたあの窮屈な感じとあまりにも感覚が似ているのではっとすると同時にぞっとしてしまったのです。ああ、これだ、この感じで、私は毎日生きている。お風呂みたいに「枠」は目に見えないし、私を酷く拘束したり束縛する人もいない。端から見たらかなり自由で好き勝手でだらだらしたもんだ。間違いなくそうだと思います。私自身も自分をそう見るのだから。けれども、なぜか自由な感じがしない。すくなくとも、毎日が大抵「らくちん」で「たのしい」じゃない。ずっと目に見えない小さな檻の中で暮らしてるような気がする。
そして横を見た時に、ちょうど半分くらい出来た、ただただお湯がゆらゆらするこの空いたスペース、これって何だろう、と思いました。私にも本当はこのスペース、あるんじゃないの?どこに行ったんだ、どこに消えたんだ私のこのスペース??
そんな話を昨日思い出してせんせにしたら、「お風呂と違ってどっちに足が伸ばせるのか、方向がわからへんのと違うかなあ。」と言われました。なんか、このままじゃ窮屈だ、もっとゆったりする感じが時々ある、ほんまはゆっくり足伸ばせて楽な姿勢になれることも、そのためのスペースがあることも知ってる、けれどなかなかその「足が伸ばせる方向」に向けなくて、その方向がわからなくて、それで窮屈だなあって思てんのとちゃうかなあ、と。
思わず納得の回答。久々のお師匠と小坊主の問答でした(って大概小坊主が「わからへん〜〜!!」てじたばたしてるだけなんですけどね)。そして、曰く「考えて」わかったり発見するよりも、「感じて」発見する方が私には合っているそうで、そういう発見てのはいいねえ、と、ちょっとだけ嬉しそうに見えたのは、私が嬉しかったからかしらん?
お風呂は特段ぼーっとすることが多いスペースなので、そういう「発見」につながったのかもしれませんね・・・。こうやって書いてみても、やっぱり、とってもなんて事ない、しょうもないことなのですが、私には結構大きなひらめきと発見だったのでした。あの「うおっ!」という(衝撃とまでは言わないが)そういう感じをお伝えできる文章力がないのがとっても残念ですが・・・。

*1:これは東京の家のお風呂に文句をたれている訳ではないのです、決して。大阪の家なんて昭和の香り(?)漂う田舎のお豆腐型浴槽(所謂和式で、一人しか入れなくて、とっても深くて、体育座りしないと入れないお風呂)だったのですから。いまの東京のお風呂に十分満足しています。時々、もう一件悩んだ設備の良いお部屋・・・結局環境や緑を選んで今の部屋にしたことに後悔は全くありませんが・・・に付いていた「追い炊き機能」があればなあ、と思いますが、お風呂はたいてい二人で入るからあんまり使わなかっただろうし、私が昼間一人ではいる時はたいていMさんの苦手な、甘ったるいバニラやココナツ、フルーツ系の入浴剤を入れて遊んでいるので、結局一から入れ直すことになるのです。だから、やっぱり要らないですね。