芸術を『消費』する?

本にしても音楽にしても体(脳?心?)が(往々にして大量に)必要とする時があります。そしてその時熱中していて良かったと思っていたものに対して何の感情も抱かなくなったりする事があります。あれほど「なくてはならない」だったものがあっても無くてもどうでも良くなったり本棚の隅に追いやられたりCDラックの奥にしまわれたままだったり。
そういうものは(よくある表現として)単に「『本物』じゃなかった。」のでしょうか?それとも自分が変化して作品に合わなくなったのでしょうか?
いつか、あれは確か高校の頃、谷川俊太郎佐野洋子池澤夏樹の鼎談を聴いた際、お三方とお話する機会を持たせて頂いて「小さな頃繰り返し読んで、繰り返し泣いた大好きな絵本を、今読んでも全然泣けない、これを成長というのなら成長したくない、とても悲しいと思う。」という趣旨の事を話すと、お三方口をそろえて「それこそ成長だ。」と仰る。しかも「素晴らしい成長をされている。」と。私は全く釈然としませんでした。大人にはこの気持ちはもう解らないんだ、と少し憮然としながら思ったのです。
私は今、歳こそ「大人」と呼ばれておかしくない歳になりましたが、今でもあの時の反抗する気持ちがどこかに残っています。だから好きだったものをあまり好きと思えなくなった時に、なくてはならないと思っていたものがなくても良くなった時に、それを『消費』してしまったような気持ちがしてどこか申し訳なく思うのです。これは只の感傷なのでしょうか?それとも成長痛みたいなもの?
でも「それこそ成長だ。」という言葉の意味も、少しだけわかるような気がしはじめています。それがまた、少し悲しかったりもするのですが。


枯葉 ジャズを聴き始めるきっかけになった盤であるところのBGM:MANHATTAN JAZZ QUINTET『AUTUMN LEAVES』
メインの「枯葉」も悪くないんだけど、私は1曲目の「JORDU」のドラムソロで鳥肌が立ちました。一時期執拗に聴いていました。(ほら、今はそれほどじゃないんだよね・・・。)作者のDUKE JORDANがプレイしてる盤を聴いて見たい・・・。